6年過ぎました。

今日のお話
あたたかさ

 

2011年、4月末から5月は僕を大きく変えました。

当時42歳の僕の人生を深く考えるきっかけになった出来事です。

 

津波の時に、事情を理解できない子供だった世代。

復興に向けて、ひたすら動き続ける世代。

震災後に赴き、自分の目でみた光景、におい、無情観。

理解しがたい状況。

 

それを忘れないためにも、印象深い写真を掲載します。

親から子へ伝えられる事実、と考えていただければ。

 

僕は、被災地の皆様と回診という形で日々、お話をしていました。

医療者にはあるまじきことですが、こみ上げる涙を押し殺して、淡々とお話をうかがうことも多かった。

 

そして皆さん、同じことを願っておられました。

 

すぐに忘れ去られてしまうことになるんでしょうね。数年もすれば、3月11日のみ記念日かのようにメディアにのり、画面からは苦しみが伝わらないことが寂しい。どうか可能な限り状況を正しく伝えていって欲しいです。”

 

せめて現地で事実を見たものとして毎年、そして今後も僕なりに語り部として伝えていきたいです。

 

親も失い、PTSDになったと思われる子供たち。

その子供たちを助け、自分の家族の安否もわからないまま激しい高血圧と粉塵、衛生的に劣悪な環境下で必死に避難所をまとめる大人たち。

陣頭指揮をとっておられた九州赤十字病院の皆様。陸上自衛隊の皆様。

 

忘れることはできません。

 

膨大に映してきたものの中から掲載した2枚の写真は僕が実際にみた現場です。

ネットや報道の影響を受けない、真実の写真です。車を降りて、状況を見た時言葉は出ませんし、現実であることを理解するのにかなりの時間がかかりました。

 

当時、連日取材に来ていたテレビの取材状況とその日に流れるニュースのあまりに大きな違い。

テレビの嘘、ネット情報の嘘。虚構がまかり通っていました。

 

僕が行かせていただいて時には、すでに原発もメルトダウンが始まっていたようですが、”絶対に安全だ”との政府発表。

自然災害の前では、物も無力であること。

震災後、1か月ほどの光景

ネットや報道ではなく、自分の目で見た光景

当時の小学生たちの多くは、卒業式の記憶があまりないとのことですが、自らの目の前で起きたことを無意識に封印しているのかもしれません。

心の奥底にしまい込まれた経験が成人期に影響が出ねばと気になっています。

 

決して、僕自身は忘れることができないでしょう。

この季節には、いつもに増して東国に思いをはせます。

完全復興を心から祈っています。

 

感染症の動きもそのころから季節を関係なしに大きく変わりました。

昨日も、インフルエンザA、B。溶連菌感染症。冬も夏も関係なしです。

粉塵も激しく飛散しています。避難所の方々は、頭痛、止まらない鼻汁、皮膚のかゆみ、持続する咳などで悩んでおられましたが、粉塵が大きな原因です。

しっかりと防災、防塵の備えをしましょう。

 

よろしくお願いいたします。

 

江口小児科  江口尚彦