ここで、温羅と、後に太郎に大きな影響を与える吉備太郎の事を伝えておく。
二人とも、もとは堺の商人の末裔であり、幼馴染でもある。
商才にたけ、英語も堪能、異国人と渡り合う度胸も共通。
音楽を楽しみ、酒を楽しみ、本当に仲が良かった。
ただ、小柄な温羅は、徳川への反骨心から500名規模の、温羅一族を立ち上げ。
徳川方の焼き討ちで南蛮貿易をたたれ後、当初は1615年小豆島へ移住。
醤油の製造の基礎を作り、順調に商行為を行っていた。
徳川が盤石となると、彼は豊臣方に一時期でも通じていたため、小豆島をも追われる。
今でいう井原市に一族全員で移り住むことになった。
かの地でも温厚な人柄で、民に親しまれ商売を再開。
吉備の国の滋養剤として吉備粉を売り、庶民にも喜ばれ、大きな影響力を持つようになった。
その後、岡山市足守に商売の拠点を移したが、井原の居は別荘として残している。現在も名所になっているが。
ここで時代背景を考えてみよう。
太平の世になったとはいえ”傾奇者”は日本各地に大勢いる。
前田利家の甥、前田慶次郎をはじめ猛者は、十分な力を持っていた。
現在からふりかえれば260年も続く安全な幕府だったと思われるが、当時はどうなるかわからなかったのだ。
事実きな臭い状況は、あちこちで起きていた。後に士農工商と身分付けを考えねばならないような。
では、仮に”傾奇者”を全て駆逐してしまったとする。
突然、各地で暴動が起き彼らの力を借りなければならない可能性もある。が、そのまま放置しておけば統治できない。
幕府の力だけでは統制が取れてなかったのだ。
事実、討ち入りで知られる赤穂浪士は1703年1月30日、江戸、吉良屋敷への討ち入り事件である。
1615年大阪夏の陣から考えて90年近くたっても、完全に安定した世ではなかったのだ。
そこで江戸幕府は、
強力なな影響を持ち品行方正な”傾奇者”を探す。
そして士族の身分、あるいは金銭的な支援を行って手なずけるようにしていた。
独特な感性を持って生業をしているものにも商売にお墨付けを渡した。
つまり幕府が脅威を覚えるほどではないと判断した場合は放置していたのだ。
いずれ、討伐する真意は隠したまま。
夏の陣終了後、当時幕府の高官は、温羅一族の強い影響力を認めていた。
懐柔のため、士族の身分と資金提供をさせてほしいと温羅に申し出た。
かわりに西国に根強く残る太閤人気を貶めるため、無頼者の集団に豹変してほしいとも。
当初は徳川の申し出をかたくなに断っていた温羅。
小豆島を追われ、ようやく岡山県井原市に定住し、商売が軌道に乗り始めたころ。
しかし、一族郎党を食べさせていくことに必死であり、条件をのまざるを得なかった。
そして、岡山市足守に移った後、暴行・殺戮などは行わなかったが、金品をだまし取るようになった。
豊臣再興のために金が要るとの名目で。
詐欺に近い行為と考えていただいてよい。例の古物商である。
当初、幕府は頃合いを見て謀反のおそれありと温羅を取り潰すつもりであった。
しかし”桃の屋太郎”が出現。幕府の高官も、太郎の真意を見抜くことができず、幕府の思惑とは別の展開になる。
かたや吉備太郎
彼自信、商才もあり、人を和ませることにたけた人物。
ただ、2メートル近い巨躯に強面。
集団を作るような嗜好がなく孤高な生き方を望み、語学と音楽を融合させて、独自に遊び心を作成。
それを民衆に披露し、喜ばれていた。
自らの趣味ごごろと人心掌握の心理術で、演劇を生業としていた。
正義感がもともと強い。
幼馴染の温羅が突然に豹変したことを当初はにわかに信じられず、状況を確認させるため足守に移住。
真実を知って、幕府の懐柔を飲まざるを得ないことも理解していた。
そして、民衆を苦しめている己に嫌悪を強く持ち、悲しんでいることも。
その時、温羅の苦渋を知らず、血気盛んに討伐へ出かけた桃の屋太郎の動きを耳にした。
自らが真実を話すことで、温羅の哀しみを理解してほしいとの思いで同行する事を決意。
童話に出てくる”お腰につけた吉備団子”。これの意味することは次号に記載する。
吉備太郎は、キジに文を送り自らを太郎に合わせてほしいと懇願。
もちろん間者であるキジは、吉備太郎の事は調べつくしてた。
邪心のないことを確認し、太郎と面会する機会を作ることになる。
いよいよ、若さと正義感であふれる太郎とその一行に温羅の深い事情を知る吉備太郎が加わるようになっていく。
戦いの方向もおのずと変わっていくことになる。
吉備太郎と桃の屋太郎一行。この出会いで温羅襲撃が現実味をさらに帯びてくる。
もとは人生で接点のなかった両者が出会い、強い絆がうまれるのだ。
人の縁は不思議なものである。
以下次号 水曜日掲載です。
この作品はフィクションです。
コアラ人