僕が見ていたアニメの一つ、”まんが日本昔話”。
そして、今後作りこんで一部完となった”桃の屋太郎”の雛形です。
よく、グリム童話には怖い教訓が多いと聞きますが、日本の童話は大人になって考えると、突っ込み満載なんですね。
みんな知っている桃太郎。
冒頭は、さらりと流されます。
”むかぁし、むかし。あるところ。おじいさんとおばあさんが暮らしていましたぁ。”
ちょっと待てよと。物語の冒頭としてはいかがか?
昔、あるところ。
いたるところにおじいさんとおばあさんはいたはずです。
ふわぁっとしすぎ。
例えば、
”豊臣政権崩壊後、戦では長やりの源次と呼ばれ、戦うところ敵なしで姿を見ただけで相手軍の士気が下がるほどの強者、桃の川源次郎。
戦なき平和な世の中になり、徳川方からひっそり身を隠すため備前の桃村で有力者、越後屋惣兵衛が所有する山の芝を整備することを生業にしていた。
そして彼の生涯に全てをささげたかつての間者、フミ。
二人は大勢の村人の力仕事を手伝い、評判が評判を呼び、村、村からかくまわれるように暮らしていた。”
このくらいのリアルさ(内容は出鱈目ですが)が欲しい。
仮にも、山全体の芝を刈る屈強な男です。
そして、偶然さずかる桃太郎を鬼と互角に戦えるまでに育てるわけですから、
ぐらいがピンときます。
そしておばあさん、フミ。川の流れは早く、危険と隣り合わせ。
繊細で新鮮な桃を、流れの早い川から傷をつけずにつかみ取り、源次郎にみせるために担いで帰る。おばあさんも俊敏さが必要。
この二人ならば、納得は行きます。
冒頭をここまで作りこんでおくと、
桃太郎が源次郎にタフな若武者に鍛え上げられて成長することも納得。
間者である祖母から策を授けられ、またかつての祖母の部下だった間者も味方をして、鬼退治に行くことがしっくりとくる。
生活としての、川への洗濯。生業としての、芝刈りにも意味が出ます。
戦場での哀しみがあるため、寡黙でも村、村、村の人たちにやさしくかくまわれることも現実味を帯びます。
ただ、そうなると太平の世に”鬼”は一体何者だったのかということにもなりますが、ここは単に想像です。
戦場でしか生きることのできない男衆を、平和な世の中に合わせていく世情を描いていたのかなと。
じゃあ、鬼は豊臣方についた浪人、桃太郎は江戸幕府になってしまうので、岡山から離れてしまう・・、いかん、いかん。
空想大河ができるのならば、妄想おとぎ話シリーズもあっても。
こういったくだらないことを考えて、頭をリセットしています。
何も生産性はありません。すいません。
コアラ人の独り言