最新桃太郎の真実 桃の屋太郎 第一話 真実への扉

桃の屋太郎

歴史には諸説ある。

皆さんは桃太郎伝説の真実をご存じだろうか。

 

桃から生まれた桃太郎が、猿、犬、キジを連れて鬼退治。

 

一般的に平和そうに思われるこの昔話。

実は豊臣方の遺志を組むものたちがが260年続く江戸幕府転覆を画策する裏歴史であった。

そして、勧善懲悪というものは存在せず、双方に哀しみがあり、論語にも通じる思いやりの

重みもある。

もちろん教科書には記載されていない。

 

まず桃太郎の本名は、桃の屋太郎という。

何故そう呼ばれるようになったかいずれお伝えするが。

 

強靭な体力、比類なき知力で戦国の世を生き抜き、関ヶ原の合戦後、高野山のふもと九度山に蟄居となっていた真田昌幸は、1611年7月、65才で夢がついえたとされている。

実はその年4月には豊臣との親交も厚かった岡山へ密かに居を移し、自らを没した事にして”桃の屋源次郎”と改名していた。

 

いずれ豊臣方が蜂起し、徳川方との最後の大戦が近いと感じていた彼は現在の足守に落ち着き、九度山の幸村にも策を伝えていた。

自らは、芝刈りと称し山の木々を迷路であるかのように配置し、街道にも行軍を阻む細工を施している。

すべては徳川軍に加担する大名の大阪攻撃を遅らせるためであった

そして、いつか自らが歴史の表舞台に幸村とともに返り咲くため

 

しかし1615年、大阪夏の陣で徳川の勝利。

 

豊臣の滅亡と息子幸村の死によって、言いようのない虚無感に陥った源次郎。

豊臣没後に大地主となった宗兵衛の命で、彼の所有する山の芝刈り(現在でいう造園業)で細々と暮らすこととなった。

自らの身分は、以後も完全に秘匿にすることにし、自宅の蔵に歴史書、武具などを隠し封印した。

 

源次郎のかつての部下でもあり、真田幸村に最後まで従った佐助の姉で、同じく間者であったフミを妻としてひっそりと暮らす生活。

その時昌幸69才、フミ62才。

 

毎日、山の芝を整える造園業を営み、しかし心に大きな暗渠と哀しみを抱えた彼とフミ。

変化のない日々がただただ流れていく。

 

しかし、幕府としても戦のない世になったとはいえ、完全支配が完成しているわけではない。

 

なぜなら各地に”傾奇者”とよばれる合戦の場でしか生きることのできない猛者が多かった時代。

幕府は、各種の策を講じ統治を完全なものにするため、武力をそぐことに必死であった。

一気に退治することも当時の世相上、得策ではなかったため知恵を絞り続けていた。

 

岡山では、”温羅一族”が大阪夏の陣の後、幕府が行った仕打ちに対して従属を良しとせず、抵抗をしていた。

温羅の背景もいずれ記載していく。

 

幕府の役人は温羅一族が持つ地域への強い影響を評価し討伐ではなく、外様ではあるが士族の身分を与え、莫大な援助を行うことを提示。

その代わりに庶民へ傍若無人なふるまいを行い、太閤殿下に対する西国における幻想を貶めるよう命じた。

苦渋の決断をした温羅一族により、民は困り果てていた。

 

搾取される民の窮状を間のあたりにすれども、桃の屋源次郎はもはや子もおらぬ身。

さりとて寄る年波で己の力ではどうにもできないことがわかっており、切歯扼腕の思いであった。

 

そして夏の陣から2年が経過した。

 

時は1617年、岡山での生活にもなじんだ働き者の桃の屋源次郎。

その屈強な体躯、哀愁のある雰囲気から村人に親しまれるようになった彼とフミに大きな転機が訪れようとしていた。

 

ある日源次郎が出かけたあと、フミが足守川に洗濯にいったときのことだ。

上流に大きな茶色の籠を見つけた。

かなりの大きさで見る間に流れてくる。

しかし、もともと間者であるフミ。

素早く川に入り流れに足を取られぬように構え、しっかりと籠を持ち上げる事など造作もないこと。

まずは川から持ち上げ、ゆっくりかつ丁寧に運び上げた。

 

落ち着いた状態で籠の中を見つめ、驚嘆したのであった。

 

茶色の籠は巨大なもので、無邪気な赤子と、水が浸入せぬように幾重にも油紙がひかれ、たくさんの桃が入っていた。

そして”ご加護を”と記された札があるのみ。

 

可愛そうな境遇ではある。

おそらく豊臣刈りを逃れるために”おのこ”を授かった武家が、祈るような思いで託したと思われる赤子は、きれいな笑顔で眠っている。

運命を感じたフミは、かごを持ち上げその子を静かにつれて帰り、源次郎の帰宅を待った。

 

以下次号。毎週水曜日掲載の週刊です。 

この作品はフィクションです。

 

コアラ人