父母考

父母考
暖を取ります。

これは僕自身のことでもありますから、客観性のある情報ではありませんが、いつも思うことです。

僕が物心ついたころから小学校を卒業するまで、母は絶対的に強い存在でした。

もちろん自分が、数々の妙ないたずらをしていたからで仕方がありませんが、

目力でねじ伏せられるくらい。

以前の育児の時にも記載しましたが、赤ちゃんは必死で一人で生まれてきて、

そこから正しい情報のもとに親に道を作ってもらい、そこを進むんですね。

何も検索情報などがなかった時代。

母の苦労は大変だったと想像に難くないです。

怒るときにはとことん厳しく、でもほめるときにはたくさん暖かく包んでくれました。

それに母は、僕の嗜好をよく把握していたんだろうなと思います。

誕生日のプレゼントも、リクエストしたわけではないのに、欲しいなあと

思っていたものが必ずありました。

僕がした小さな事でも、大喜びをしてくれました。

心底、子供である僕を理解し、守ろうと必死だったのだなと感じています。

だから絶対的に強い存在ですが、一番頼る存在でもありました。

大きく行動的で、僕が成人したときに何が良いのかを常に考えてくれていたのでしょう。

今の母はどうか。

母と2人で久しぶりにお墓参りをしたとき、ちょっとした段差でも

手をひかなければならないこともあり、また足元に気を付けてと

声かけをすることが多かったです。

あれほど大きい存在だったのに、小さくやや弱くなった

母を気遣う自分がいました。

今、母に対して思うのは、何も悩むことなく、若くして他界した

父の分まで、とにかく長く楽しく生きてほしい。

それだけです。

世間の荒波は成長した子が受けますので、のんびり眺めてくれればいい。

月に何度か、実家に行き同じ話だったとしても、しっかり聞きます。

小学生の頃の僕が好んで食べていた、おやつ、食事を必ず用意してくれて、

出してくれます。

いつまでたっても、子供という思い、これは母の愛情でしょう。

もちろん慣れ親しんだもの、おいしく食べます。

僕が話す仕事のちょっとしたことで感激してくれます。

大切な存在です。

じゃあ、父は?

職人肌で、新聞記者。

休日はめったになく、休みの日は車で父の好きな音楽がかかりドライブ。

母は、兄の気晴らしに行っていましたから、父とただ無言でドライブです。

何を語るでもなく時間が過ぎましたが、父の音楽観にいつの間にか

僕も影響を受けました。

洋楽好きはそこから始まったのでしょうね。

時には、実家に当時あったリヤカーに僕を乗せて、近所の公園に連れて

行ってくれたこありました。

父の肩車で喜んでいたことも覚えています。

時間が不規則で、父にとって休日に十分な睡眠をとることが一番大切なので

回数は少なかったですが、強烈な印象です。

そんな父が珍しく僕に相談してきたことがありました。

腹部に異常を感じ、当時臨床実習中の学生である僕に

”診察をしてくれんか?”と。

父なりに卒業の近い僕への誇らしさもあったかもしれません。

もしくは、無骨ながら父の愛情からの言葉だったのかも。

春休みで帰省中の僕は見よう見まねで腹部を触りました。

軽い気持ちで”大丈夫と思うよ”というと、

”お前に言われると安心したよ”と言いました。

それから、2か月後すい臓がんで他界しました。

意識がなくなる直前に僕がついていましたが、

”尚彦、すまんかったなぁ”これが最後の言葉です。

涙が止まりせんでした。

力不足の自分、もっと父とコミュニケーションをとればよかったという後悔。

今でも消えません。

だから最後の言葉の意味を知りたいし、父親捜しをしているのでしょう。

これが医師としての僕の出発点となる育児、人とのつながり、人生観です。

何もわかっていない赤ちゃんや子供が正しく進むため、

笑って過ごせるようにするために大切な事。

親は子供の家来ではなく、絶対者で過ごし、

そのあとは黙って様子を見る、これでしょうね。

僕自身は最高の育児を受けたと思っています。

好きな食べ物はと聞かれることもありますすが、

思い入れの多いコロッケなんですね。あとは母の作るから揚げ。

これらがあるときは、兄も含め一家だんらんの食卓でしたから。

今のお母さんやお父さんも、自分が子供の時どうっだのかなと

思い出してみて、色々模索をしているのだろうと思います。

親が強ければ、その愛情にこたえて子供はついていきます。

以前にも記載した、

子が親になっていき、親が子になっていく

僕は後悔なく成長した子供さんで世の中が明るくなることだけを祈っています。

コアラ人の独り言でした。

 

コアラ人